「性」と「尊厳」― 最近のニュースから
- Hiromi Hataji
- 7月22日
- 読了時間: 5分

WHO(世界保健機関)の広義な定義である『性暴力』と、日本語から一般的に想起される『性暴力』は異なるのだろうかと、ニュースを見ながら考えさせられました。
フジ・メディア・ホールディングスとフジテレビが設置した第三者委員会が提出した報告書には、WHOが定義する性暴力についての記述がありました。その定義は次のようなものです。「強制力を用いたあらゆる性的な行為、性的な行為を求める試み、望まない性的な発言や誘い、売春、その他個人の性に向けられた行為をいい、被害者との関係性を問わず、家庭や職場を含むあらゆる環境で起こり得るものである。また、この定義における『強制力』とは、有形力に限らず、心理的な威圧、ゆすり、その他脅しが含まれるもので、その強制力の程度は問題とならない」とされています。
私たちは、ホットラインやアウトリーチを通じて、児童・若者の性被害に関する支援の仕事をしています。私たちが出会う被害者の多くは、WHOが定義する性暴力に苦しんでいる方々です。彼らは、身体的に傷つけられたというよりも、むしろ心が深く傷ついています。そしてその傷は、程度の差こそあれ、確実に被害者の人格に影響を及ぼしています。そう考えると、性暴力とは心の被害であり、人としての価値を踏みにじる行為であると言っても過言ではありません。
このような被害の現実に直面すると、「性」とはそもそも何なのかと考えさせられます。人は男性と女性の生殖行為を通して生まれます。つまり、「男」であること、「女」であることは、「いのち」を生み出す基本となっているのです。「いのち」とは人そのものであり、その人の存在価値、すなわち「尊厳」そのものといえるでしょう。
プライベートパーツといわれる性的行為と関連する部位には、口、胸、おしり、性器などがあります。口は外部のもの(食物、水、外気)を取り込み、胸は赤ちゃんに授乳し、おしりや尿道は体内の不要なものを排泄し、性器は生殖を司る部位です。これらの部位は外部と直接つながりを持ちつつ、「いのち」に直結する部位であるといえます。このような部位を他人が勝手に触れることが問題になるのは、最も無防備な部分に触れられることで「いのち」の危険を感じるからではないでしょうか。そしてそれは「いのち」、すなわち相手の「尊厳」に触れることになるからではないかと思います。
思春期を迎えると、体は「いのち」を生み出す体へと変化していきます。心の中では異性に興味を持ち始め、性欲を体験するようになります。ここで問題になるのは、この肉体の変化と性的欲求にどう対処してよいのかがわからないということです。多くの子どもたちは、生殖機能としての「性」や性感染症の危険性、妊娠のリスクについて学ぶ機会はありますが、自分の「性」や相手の「性」を大切にすることについて、幼児期から年齢に応じた形で学ぶ機会はほとんどありません。
実際にもっと危険なのは、ネット上では人の「尊厳」を学ぶ機会がないどころか、性的な漫画、アニメ、ゲーム、アプリやAVを通じて、性的欲求を満たすために人の「尊厳」を踏みにじり、人を支配する方向へと子どもたちが誘導されていることです。大人が「寝た子を起こすな」と言っているうちに、子どもたちは無防備な状態でこのような危険なメッセージを受け取っているのです。
自分の性欲を満たすために、相手を「尊厳」を持つ人ではなく、単なる「道具」として扱ってしまう。そのように「道具」にされ、「尊厳」を傷つけられた被害者は、深い心の傷を負うことになります。加害者はというと、性的欲求に基づいて相手を「道具」にしたことが公にならないよう隠そうとします。なぜなら、その行為が明るみに出ると社会的信頼を失い、自分の「尊厳」も傷つくからです。
これまで、性被害を受け、人としての尊厳を傷つけられるのは主に女性であるとされてきました。しかし、2023年頃から、私たちはセクストーションの被害に遭った特に男性からの相談を受けるようになりました。セクストーションとは、「特に男性の場合、性的な気持ちを利用され、相手に言われるままネット上で性的な画像を送信したり、カメラの前で性的行為を行った後に、その画像や映像をフォロワーや電話帳に登録されている人たちに晒すと脅され、金銭などを要求される行為」を指します。
このような被害に遭った人たちは震え上がり、夜も眠れず、死にたいと思うほど追い詰められます。自分の「性」は極めて個人的なものであり、フォロワーや電話帳の人たちが見るようなものではありません。そうした事態に陥ると、次のような思いが生じ、自分の尊厳が深く傷つけられるのです。
極めて個人的で繊細な領域が暴かれることで、最も無防備な部分を踏みにじられたと感じる
悪用されることで、自分の「汚い部分」が暴かれたように感じ、強い嫌悪感や屈辱感を味わう
相手を信頼したことや、自分の欲望が「愚かだった」と突きつけられ、自尊心が深く傷つく
自分の性的な部分がコントロール不能な形で晒され、相手の「道具」となり、男性性そのものが傷つけられたと感じる
性という行為に「支配」と「被支配」の構図がある場合、自分が「支配された側」であったことに対する屈辱感が大きくなる
等々…
これまで、相手の「道具」として扱われ、上記のような屈辱を味わうのは、主に女性や子どもでした。しかし今や、性的に成長した男性が被害に遭う時代となったのです。ぜひ、男性たちにも「性」とはどれほど大切なものであるかを声に出してもらいたいと思います。
もし、いまだに日本語から一般的に想起される『性暴力』が身体的暴力を伴う性的行為とされているとしたら、「それは違う!」と、男性からも声をあげてもらいたいです。
そして学校では、自分と相手の「性」を大切にすることについて、このような実例を踏まえながら生徒たちに教えていただきたいと思います。これは単なる「性教育」にとどまるものではなく、「人として尊厳を持って生きる」とはどういうことかを考える機会になるのではないでしょうか。




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