小さい頃の私は母が働いていたために家でよく留守番をしていました。私が昼寝をしている間に母が出かけたとき、母が帰宅する前に目を覚ました私は飾ってあるひな人形を見て、怖くて不安で泣いていました。そんな時母が帰ってきて独りぼっちにさせた私を見て愛情いっぱいに接してくれたことを今も思い出します。食事、掃除、洗濯等、何気ない日常を働きながらしてくれる母の存在は私にとってとても大きなものでした。
母は私が学業をスムーズにこなし、数年の社会経験を経て、結婚し、親から自立してほしいと望んでいました。世間一般の普通の娘であることを望んでいたと思います。しかし10代の頃からアメリカに留学したいという思いを持っていた私は、そんな夢を母に話すわけにもいかず、経済的にも迷惑をかけられないと思っていました。さっさと就職してお金をためてアメリカに行こうと密かに計画を進めていたのです。
20代の半ばを過ぎた頃、早く結婚してほしいと思っていた母はお見合い話を持ってきました。既に具体的に願書を送る大学を決めていた私は母を悲しませないために取り敢えずお見合いをこなし、その後アメリカ留学の話を持ち出すつもりでした。相手の方はお付き合いを続けたいと言ってくださったのですが、その話を蹴ってアメリカ留学の話を出した時の母はとてもショックだったと思います。「好きなようにさせてやれ」という父の言葉で、母も覚悟を決めアメリカに送りだしてくれましたが、アメリカに何の伝手も、知識もない母にとっては娘がアメリカで死んでも仕方がないくらいの覚悟で送り出してくれたのだと思います。
一方、私はホームシックになることもなく、大学生活を楽しんでいました。ある日、家に電話をすると電話に出た姉は口が重く、変だなと思っていると「あのね…お母さんは癌なの」という答えが返ってきました。その一言で私は奈落の底に突き落とされました。私は大学を辞めて帰国すると母に伝えましたが、「あなたが今帰ってきても自分の病気には何の役にも立たない。最後まで終えて帰って来なさい。」と言われました。それからは、かなりのホームシックになり、朝泣きながら目が覚めるという生活を送りました。家に電話をすると母が死にそうだと言われるのではないかと怖くて電話もできなかったのです。
卒業し、帰国した時、癌治療で髪が抜け落ちカツラを付けた母が玄関先で迎えてくれました。何度も母の死をイメージしていた私にとって、生きている母を目の当たりにした時は夢の中にいるような気持ちでした。
それから1年半ほど母と一緒に過ごすことができました。ある日、母と病院に訪れた時、癌が肺に転移しているレントゲン写真を見ながら担当医が入院を勧めてきました。長い間入院し、その苦しさを知っている母は覚悟を決め、癌が最終ステージになるまで家にいることを選びました。ある夜、私が眼をさますと暗がりの中、母が身体を起こして黙って座っていました。私が声をかけると「あなたは寝てなさい!」と厳しい口調で返ってきました。その時、母は死の恐怖と闘っていたのだと思います。
死が間近に迫り、トイレに独りで行くのも大変になった頃、「神様なんかいない」と母が苦しそうに言ったことを覚えています。神様に病気の癒しを求めても、日々苦しくなる母はそう思ったのだと思います。そして家の中にある神棚には私たちは手を付けなくていい(水や塩を供えることはしなくていい)と言ってくれました。このような習慣に子どもたちを巻き込みたくなかったのだと思います。母が亡くなると私の身体の半分がもぎ取られたような思いになりました。
母の死から5年が過ぎ、私はイエス・キリストを受け入れました。そして教会に通うようになりイエス・キリストこそ私たちを造られ、愛され、永遠のいのちを与えられる方だということを知るようになったのです。救いの確信が強まれば強まるほど、母は死後どうなったのだろうという思いが私を苦しめました。死ぬ間際に母が真実の神様を求めていたことは確かです。イエス様がそのことを受け入れてくれていたらいいのにと何度も何度も思いました。
私にとって福音を伝えるモチベーションの一つは母の死です。私が先に救われていたら母に福音を伝え、母の救いの確信が持てたのにと思いました。母のことを思うと私は福音を他の人に伝えずにはいられないのです。生きている間に救いの確信を持つことがどれほどすばらしいことか!一人でも多くの人にこのことを知ってもらいたい、神様を体験してもらいたいと思います。
私はこれからも、そして自分が死ぬまでこの思いを捨てることはできないでしょう。
秦地 浩未 - ゾエ・ジャパン
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